一年ぶりに世界のトレンドにならんで不自由な国に移行しつつあるらしいオランダに行ってきた。午後からドイツで用事が有るのに、定期券で国境まで行けるのをいいことに当日朝に予定立てて行った。

オランダの方が物価がやや安いので、ドイツ人ばっかだった。街中で聞こえる言葉の6割がドイツ語じゃないか。店の人も市場の人もこの日ばかりは普通にドイツ語ばっか話してるし。車のナンバーも黄色いオランダナンバーに混ざって、白いドイツナンバーが半分ぐらいいるし。

交通マナーは横断歩道ではほとんど必ず車が止まってくれるドイツよりさらにいい。駅前の片道3車線もある大通りの交差点がラウンドアバウト(ロータリー)になってて、その上信号がない、、、のにスムーズに流れてる。交通量はもちろん多い。
駅前なので当然断続的に歩行者が横断歩道を渡る、、、にも関わらず3車線にまたがる車たちは余裕を持って停車してずっと待ってくれる。

歩行者の列に我慢しきれずに合間を縫って発信したドイツナンバーの車を見て、僕の前の、ドイツ人と見られる歩行者の二人組は”ね、典型的なドイツ人よ”とあきれたように話していた。

その印象が当たってるかどうかはともかく、少なくともドイツにはこんな交差点は多分ない。この規模の交差点なら、信号が付いてるか、ラウンドアバウトじゃないかのどちらかだろう。そういえばイギリスも片道3車線ある”高速道路”が突然ラウンドアバウトで終わって、ラウンドアバウトを通過するとまた高速道路が始まるというとんでもない交差点が頻繁にあったな。道路沿いに垣根で区切られた庭があって、そこに車を不便そうに停める家の建てたかたが多いところなんかもイギリスを思い出す。

そして自転車道がこれでもかというほど整備されてる。というか車道並に充実してる。そして自転車が走りまくってる。ドイツにはそんなものは街中にはあんまりないぞ。さすが世界一の自転車大国。巨大な高級車を売りつける自動車会社6社(オペルとフォードは大衆車、VWはちょっと高級な大衆車だけど)が国益を支えるドイツの自転車行政の甘さがよく見える。オランダほど街中で車の立場が弱い先進国はまだ行ったことがない。どこかあるんだろうか?というかドイツより税金が安い国だと思ってたが、なんでインフラがこんなに充実するんだ。まぁ税率は細かく見てみたらオランダの方が高いのかもしれないけど。

短い滞在の印象ではなんかドイツより大人の国ってかんじだ。なんかドイツともかなり、日本とは決定的に社会統合のやり方が違うと思った。ドイツと違って英語が”よく”通じるし。また来週も、できれば自転車を手に入れてから行きたい。

なんか絶対草で煙に巻かれているような人に質問されたり、電車が突如運休になったためヒッチハイクでドイツに帰ったりと微妙におもしろかった。

と、その運休がきっかけである不思議な出会いをもたらしてくれた。後で出来事を整理してみると偶然がいろいろ重なって起きた事だと言うのを改めて実感した。けど、この話をかく気力が今はない。別の日記で書くかもしれない。

しかし最近の公共交通機関の込み具合はどうにかならないだろうか。
ガソリン価格の高騰でアウトバーンガラ空き、公共交通機関いつも人多杉の日本現象が起こってるぞ。急激な需要の変化に合わせられないからそうなるんで、言ってもしょうがないことではあるのだが。増えすぎた利用客減らしのためかなんなのかよくわからないけど、8月にまた運賃が上がる。それをごまかすために料金体系がより複雑になる。いい加減にしろ。

ドイツの各種公共料金は各種インフラ機関が民営化されて以来燃料、原料費の高騰を上回るスピードで上昇しているらしい。確かに物価上昇指数で見るかぎり、エネルギー、公共交通、教育、医療、保険、各種社会保障という、元々国がやっていたものをシュレーダー政権時代に一気に民営化したものの上昇が飛び抜けて著しい。どれも貧困層の生活を保障する領域だ。ドイツでも生活保護関連費用が適切に支払われず、餓死する人がでているらしい。ドイツもヨーロッパではフランスと競って、世界の先端で国家の終焉に尽力し続ける日本の後を追おうと必死だ。

抵抗しないともっと上がるぜみんな。
さぁ一揆だ一揆だ。カマ取るとパワーダウンするからそこは気をつけてな。
昨日ついに27になっちゃったよ。
僕がこの世に生まれ死にはや27年。早く生まれる前の世界に生まれ戻りたい。
いろんな人からお祝いのメッセージが届いたけど、日本からは誰も来なかったよ。
泣くぞこの野郎。

いや、そんなことはどうでもいいんだけど。
同情するより金をくれ。

語学学校に行ってて長年の疑問を思い出した。
やっぱ学校は嫌いだ。というか授業と規律いう牢獄が嫌いだ。

いや、そんなこともどうでもよかった。
同情するより学位くれ。

僕はまわりの人たちにどう写ってるのかということを。
例えばクラスで僕はどう写ってるんだろう
先生の目にはどう写ってるんだろう
中のいい友達たちにはどう写ってるんだろう
確かにクラスでクラスのみんなが机の上に置く名札に、名前の代わりにDieって書いてその横にDie Maus(知らない人は画像をググってみてくれの)絵葉書立てかけてるのは僕だけだが 、僕はなんでそんなことするんだろう?
他の人たちはなんでしないんだろう
なぜ僕はちょっと変な事を言おうとするんだろう
なぜ他の人はそうしないんだろう
なぜ僕はいつも必ず授業に5分遅れて行くんだろう?
なぜ他の人たちはそうじゃないんだろう
なぜ僕はこれほどまでに発音にこだわるんだろう?
中身ではなく、聞こえかたがネイティブっぽくなることにこだわるんだろう?
なぜ他の人たちはそうじゃないんだろう
なぜ僕はいつも移動するとき常に音楽を聞いているんだろう?
なぜ他の人たちは僕より分別をもってしかそういしないんだろう

不思議というかこういろいろと違いが出るメカニズムが知りたい。
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まず心情的な社会的囲い込み、それに失敗すれば姥捨ないし村八分は日本の伝統芸。生活水準がまずしいいままでも、心情的幻想を持たせることによって社会に統合することを可能にする短期的には安上がりな社会支援がモットー。今回も被害者をメディアでの垂れ流しによって、国民に心情的な一体感を持たせる道具として消費し尽した後は、死刑制度によってさっさと姥捨山に捨てておしまい。

貧ずれば窮するのが日本。狭い範囲の仲間内で懐を温めあうときだけそうではない日本。

副産物としてまたわけのわからない明記された、あるいは明記すらされない法律だのルールだの自己規制だの道徳だのが一つ増える。警察の権限獲得ネタがまた一つ。自由で多様な報道は民主社会の証だが、真に自由な社会なら、メディアと社会がこの話の嫌悪感を帯びた”異常性”についてもちきりの中、敢えて”秋葉原電化製品買い物Tips”なり”自暴自棄の若者と出会った場合の護身術:対話”なりをトップ記事にしてはいかがだろうか。我々は厳罰を要求するのではなくて、新しいコミュニケーションの取り方を要求しなくてはいけない。これが条件さえ整えば人を見捨て、合理的に殺せてしまう社会で起こっているまともで正常な反応であることを明らかにしないといけない。

抑圧されたものはそれを覆す機会を伺うのは普通のことで、その機会が抑圧されるものどうしの協力、自分たちのための社会の構築と言う形に結びつけることの難しい、個人の分断された社会、日本では個人でできる最大限の暴発、つまり自殺(も同然の)テロ行為になるのも当たり前。

どうせ、厳罰化だのセラピーの強要や、ちょっとした労働待遇の改善でおしまいにしてしまうんだろうから、先に書いておく。とにかく数を減らして安全な雰囲気を増強したいだけ、ほかのことはどうでもいいということならもう何も言わないが、もしこういう犯罪へ人を導く不安や抑うつ、ストレスを社会から取り去りたいのなら、いかなる種類の新たな抑圧的解決法はそれとは逆行する。それを無理やり権力で抑えつけるのだから、数自体は減るだろうが、より深刻な暴発リスクを取っている可能性は極めて低いのか、高いのか?いや、そんなことよりみんなどんな社会がいいと思ってるんだ?あらゆる個人の要求が可能な社会か、それとも”そんなんじゃ社会は成り立たない”と対話の機会すらない社会で、要求伝達の最終手段である自殺か他殺が安易に選択される社会か?

断言できることがある、彼は”もっと余裕のある人生を”という本当に必要な要求をできずに抑圧された。それを要求することが犯罪的な社会だからこそ抑圧された。そして同じ抑圧社会の中で7人が抑圧的に生きる権利を奪われた。これは被害者は正義、加害者は悪という問題にするべきではない。誰も悪にならない社会が一番いいということに誰が反論できるのか。悪があるとすればそれは人を抑圧するもの、それ自体でありそれを排除すべきだ。

もちろん加害者にも言いたいことはある。

僕は殺人を賞賛することは出来ない。彼は武装した時点で、また死やこれ以上の自由を奪われる覚悟を決めた時点で、自身が一時的に街頭の歩行者に対して強者の立場に反転してしまったことの意味に気がついていない。その強者の立場の行使ということこそ弱者が否定するものだということに。そして、その無自覚ゆえにこれだけ多くの人たちから彼の行為が叩かれる。

僕達が彼にもっと陽気で、ユーモラスな抵抗方法を知らせることが出来ていたら、別の人生があったかもしれない。彼もまた貧ずれば窮するを地で行く社会の産物に見える。もちろん僕自身も。

いや、そんなこともやはりどうでもいい。
どうでもよくないことがただ一つある。もう、こういう人間を生み出して、こういう人間が人を殺し、こういう人間がその代償に殺される。そんな社会はもうたくさんだ。そして、にもかかわらず社会を変える権利を奪う社会ももうたくさんだ。抑圧を跳ね除けようとする人たちをさらに抑圧する社会ももうたくさんだ。

最大の無差別殺人犯は誰か?間違いなくこの社会だ。日本社会は3万人を無差別に(いや、そこには明確な差別がある)自殺させ、数千人を交通事故で殺し、アメリカの茶番に付き合いイラクでの無差別殺人行為(いや、ここにも差別がある)に手を貸し、茶番じみた財政難を理由に貧しい人たちの医療機会を奪い、財界人の幸せを我々の幸せと重ね合わせることによって、過酷な労働条件から過労死に導く。そうでなくとも、この社会には恵まれない労働条件によって深刻な職業病を強要されている人たちが何百万といる。”平和”な日本社会で今回の無差別殺人は極めて例外なのか?

いや、死ぬのはほんの一部のある意味幸せなケースだ。地獄はそこで終わりなのだから。この死者の影により多くの生ける犠牲者がいる。そのことまで考えてこの秋葉原での”無差別殺人”は万死に値する極悪行為あるいは迷惑行為であると断言するのか。


日本に社会と呼べる物があるとすればそういうものだ。ああ鬱くしいな。もう解体してしまおうぜ、こんなもの。