画像(あきらめネットブログ)

昨年12月24日に行われたクリスマスイブサウンデモから3週間が経過した。僕は、これを主催したfuf:フリーターズユニオン福岡としての会合に昨年末から一度も参加していない。10月、12月と立て続けにサウンドデモを行ったこともあって、まるでfufに出勤しているような気分でもあった。しょっちゅうfufの会合に参加していた昨年後半を通じてもたらされた自覚、つまり集団や社会、国との間に確かに存在する緊張感。そのような緊張はいつでもそこにもあそこにもあるという認識を持つ緊張感であり、比較的恵まれた(少なくとも僕の人生の中で、これは主体的に得られたものではない)我々の日常生活の範囲では隠されている、変わらざる不正、悪意、無関心、表面的な改善からくる緊張感である。

そういう世界の暗部の全貌の恐ろしさを僕に予感させるのがサウンドデモだ。しかし、そんな重苦しい事情もあるということを意識してないかのように振舞う参加者たち。彼ら、彼女らの多くは自らに気合の入ったコスプレを施し、ベストドレッサー審査まで行われるという事態に。我々はクリスマスムード満点の警固公園前に現れたが、人の洪水の前に公園内突入を断念し、公園内で憩いを満喫するカップルたちを煽り冷やかすことができず、早速敗北。普段のサウンドデモや我々が天神コア前で行っているビラ撒きとはまるで違う、我々を迎える和やかな雰囲気。なぜか来年5月のサウンドデモ(5月病祭り)の予告ビラの受け取りも異様に良い。人の流れが極端に遅い渋滞状態というのもあったのだろうが、前回二回の割と殺風景で殺伐とした雰囲気はさてどこに?

しかし、デモが始まり先導車がスタートすれば多くのことはいつもどおりだ。回を重ねるごとに少しづつ派手さと大胆さを増す我々。ある人は踊りまくり、ある人は行進する。ある人はプラカードを掲げ、ある人は旗を掲げる。ある人は死神や骨となり、ある人はクリスマスツリーとなる。アナーキストもいれば裸族もいたし怪しげな覆面ダンサーたちもいたエスニックな(不正確な言葉の使用)参加者たち。東京で警察の厳しい締め付けの中、サウンドデモを続けている人たちも、巨大で美しいアナーキーフラッグを持って参加してくれた。

路上は少しづつ違った表情を見せつつある。何千何万という人々が密集するクリスマスイブの夜の天神中心部で、この理解しがたい現象を目撃した人たちが何を理解したのかはしるよしもないが、彼ら、彼女らはfufやあきらめネットに集う人たちの持つ表現力を受け取らざる終えない。それがたとえ耳の左から右に直行する類のものだったとしても、もはや権力との対立という犀は投げられたのだ。これからも我々はしつこく繰り返す!

懸案だった警察や公安、機動隊の不当で横暴な介入も今回はほとんどなし。前回これ見よがしに我々の映像を取りまくり、事あるごとに貴重だが役に立たないアドバイスを下さった公安の方々は、今回、控えめに撮影しながら親不孝通りで、110番があったという正当な理由で、周到に事前に準備していた厚紙に「音量下げろ(意訳済み)」という警告文を書いて介入してきた。それまでの意外とほのぼのとした雰囲気に警戒態勢を解いていてた我々。トラメガ持った我等のスターはトラメガで公安に対抗。我々は一時混乱させられたが、当初の予定を変更することなく無事に警固公園に帰ってきた。もちろん弱まったとはいえ、あいも変わらずおよそ正当とはいえない行為を我々は受けているのだから、安心や満足にいつまでも留まっている場合ではない。我々の臨む社会には権力による不当な弾圧や権力の濫用がない社会でもあるのだから。

一市民たちの真っ当な要求のための合法的で正当なデモに、まともな権力監視機構の存在しない日本の警察は、しかも警察はただの一例でしかないんだが、手始めに法的根拠もないわけのわからない許可申請をしろと言ってくる。DJを回すのはよくないとか(そりゃDJがブレークダンサーなら、興奮してヘッドスピンする可能性もあるが)、警備は拒否するわ、機動隊は出てくるわ、終いには公安警察が警備の警察官たちがいないのをいいことに、逮捕をちらつかせがら「DJ手拍子するな」とか言ってくる。秩序を重んじる彼らの組織に、憲法や諸法の生み出す秩序はない。もうむちゃくちゃである。というか子供かあなたたちは。

あなたの子供と違って、この子供たちは警察権と逮捕権を持っている恐ろしい子供たちである。アメリカやドイツで銃を持った子供が学校で乱射し殺人事件となるニュースなどに恐怖する人たち。あなたにもっと近い日本で、権力を持った子供たちがそれを濫用し、世界的に人権面で非難・勧告が相次いでいるのに改めようとせず多くの犠牲者が出ていることはマスコミでほとんど何も流れないので恐怖できませんか、ああそうですか。

これこそが緊張感を我々から取り去っている大きな要因だ。人々の自分たちが生きる世界の現実に対して知りうることを狭く小さく限定し、そこを抜け出して、より多くを知ることができる機会を与えないのだ。僕は常々マスコミがどうしても真実を語ろうとせず、事実すらも公平に報道しようとせず、権力機構の「それなりに安全な」おもちゃであることを前提に、ヘッドラインをチェックする程度で毎日ニュースを読んでいる。マスコミによって得られる平和や安全、希望など、どこまでいっても虚構に過ぎないと考えるからこそfufという、時流に乗って誕生し、時流に逆らって新しい流れを作り出すなり発見するための活動に参加するのだ。にも関わらず、自動車関連企業が歩行者保護用のエアバッグを開発したりだとか、面会の巨大な権力機構や会社の一部分があたかも人のことを配慮しているかのような記事の洪水に連日出会うと、ひょっとしてこのような人たちと仲良く協力しあいながら社会を改善していくほうがいいのではないか?と思ったりする。

いや、そうではない。もちろん利害が一致するならば、彼らは喜んでそのネットワークや膨大な資金を提供し、我々と協調してくれるだろう。世界がいつもそのように誰にでも都合よく回っているのであればfufなんて必要ないし、誰もfufなんて設立するきっかけすら与えられないだろう。問題は彼らが、弱い我々と強調できない利害を持っている場合だ。そのとき彼らは何食わぬ顔で、あるときはいかにも申し訳なさそうに、そのネットワークや膨大な資金を提供し、我々をすり潰すだろう。しかも、いくら利害が一致していたとしても例えば人の生命を取引材料にして、(自分たちだけが)平和的な合意をすることに同調するべきではない。

そういう意味での我々弱者が使える武器はいくつかある。いくつかある中で極めて大きな力を持つものが、自民党の嫌う平和憲法という別称を持つ日本国憲法だ。そしてもうひとつは一致したより多くの、弱い人たちの大集団を作ることだ。

サウンドデモはそのひとつの回答である。そして、次の世界の模索への入り口だ。この入り口を提供し続けることはサウンドデモを主催する人たちの役目であり、サウンドデモを初めから終わりまで好き勝手楽しめるのは彼らの特権である。同時に誰もが憲法と路上の自由を武器に、主体的になるための呼びかけである。